AIは、世界をもう一度植民地化するのか

Adobe Stock-OlesiaRu氏「Fragments of partly demolished building」
そもそも誰がデータを残せたのか
生成AIに「世界の結婚式を描いて」と頼む。「家族を描いて」「美しい女性を描いて」「成功した経営者を描いて」と頼む。AIはすぐに何らかの像を返してくる。私たちはその結果を見て、「AIが考える家族」「AIが考える美しさ」などと言う。
しかし、よく考えると奇妙である。AIは世界を見たことがない。家族と暮らしたこともなければ、結婚式に参加したこともない。美しいと思って胸を打たれた経験もない。AIが扱っているのは世界そのものではなく、人間が撮影し、記録し、文章にし、データベースへ登録し、インターネット上に残してきた世界の痕跡である。記録する力は世界中に均等に分配されてきたわけではない。
誰が書物を出版できたのか。誰の言葉が標準語になったのか。誰が博物館や大学を作ったのか。誰が他者を撮影し、測定し、分類し、その記録を持ち帰ることができたのか。
ここから考えてみると、AIについて少し恐ろしい問いが浮かんでくる。
AIは世界を学習しているのか。それとも、過去に世界を記録する力を持っていた者の「世界像」を学習しているのか。
植民地主義は、土地だけを奪ったのではない
植民地主義という言葉から、多くの人は領土の占領を想像する。軍隊が入り、国境線が引かれ、土地や資源が持ち出される。もちろん、それは植民地主義の中心的な暴力である。
しかし、植民地主義は同時に、知識を生産する巨大な装置でもあった。土地を測量し、地図を描き、植物を採集して名前を付ける。民族を分類し、言語を記録し、宗教、風習、身体、家族制度を観察する。そして、それらを「知識」として帝国側の博物館、植物園、図書館、大学へ集積していく。
マオリの研究者Linda Tuhiwai Smithは『Decolonizing Methodologies』において、近代的な「研究」が帝国主義や植民地主義と結びついてきた歴史を批判した。彼女が問い直したのは研究結果の偏りだけではない。何を知識と呼ぶのか、誰が研究する側になり、誰が研究される側になるのかという、知識生産そのものの権力関係である。
ここで重要なのは、知ることは必ずしも無垢ではないということだ。相手を知る。記録する。分類する。保存する。一見すると、どれも暴力とは正反対に見える。しかし、誰かが他者を自分の知識体系の中へ取り込み、その分類方法や利用目的まで決めてしまうなら、「知ること」は支配の一部にもなりうる。
AIは、世界を機械可読化する
この観点から見ると、現在のAIは非常に興味深い存在である。画像認識AIは写真の中から「person」「car」「dog」などを検出する。生成AIの仕組みはそれより複雑だが、膨大な文章、画像、音声などを計算可能な表現に変換し、その間にあるパターンを学習するという基本的な方向は共通している。
つまりAIとは、世界を機械が扱える形式へ翻訳する装置でもある。
2020年、Shakir Mohamed、Marie-Therese Png、William Isaacは、論文「Decolonial AI」でAIを単なる技術的人工物としてではなく、企業、政府、研究機関、データ、労働、規範などを含む社会技術的なシステムとして捉えた。彼らは、AIが既存の偏見を再現するだけでなく、搾取、知識生産、技術的依存、権利の集中といった植民地性を継続させる可能性を論じている。
Abeba Birhaneも「Algorithmic Colonization of Africa」において、西洋で開発された技術や価値体系が「最先端のアルゴリズム」や「AIによる社会課題解決」という言葉とともにアフリカへ持ち込まれ、地域社会の問題設定や技術基盤を外部企業へ依存させる危険性を指摘している。彼女が問題にするのは、単にアフリカでAIの精度が低いことではない。誰が問題を定義し、誰が技術を所有し、誰が利益を得るのかという構造である。
Nick CouldryとUlises A. Mejiasは、さらに「データ植民地主義」という概念を提示した。歴史的植民地主義が土地や天然資源を取得し、所有可能な資源に変換したとすれば、データ植民地主義は人間の日常生活や社会関係を継続的にデータ化し、経済的価値の源泉へ変えていく。写真は訓練データになり、会話は訓練データになり、身体や移動や感情までもが計算の対象になる。
もちろん、歴史的な植民地支配と現在のAIをそのまま同一視するべきではない。土地の剝奪、強制移住、奴隷化、同化政策などの暴力を、技術批判のための便利な比喩に変えてしまえば、それ自体が歴史を軽視することになる。
それでも、両者の間には不気味な共通点がある。
世界を、自分たちの体系で読めるものへ変換し続ける欲望である。
領土ではなく、データ。港ではなく、クラウド。鉄道ではなく、API。地図ではなく、モデル。支配のインターフェースだけが変わったのだとしたらどうだろう。
「データが足りない」のは、誰なのか
たとえば、ある方言や少数言語を音声認識AIがうまく認識できなかったとする。AI開発の現場では、「学習データが足りない」と説明される。この表現は技術的には間違っていない。
しかし、少し主語を変えてみる。その言葉は、ある土地で何百年も話されてきたかもしれない。その言葉で人々は喧嘩をし、恋をし、子供を叱り、祈り、笑い、死者を弔ってきた。つまり、その言語には何も不足していない。
知らないのは、AIの側である。
私は《消えつつある方言のAI的保存》という作品で、山形県西川町の人々に協力してもらい、方言の音声を収録し、既存のAIよりも方言を認識しやすいモデルを構築した。そこには、標準語には反応するAIが方言を排除してしまうことへの問題意識があった。
けれど、この実践を続けるほど、もう一つの問いが生まれてくる。AIが知らない言葉をAIに教えることは、本当に無条件に正しいのだろうか。誰が録音を管理するのか。誰が学習目的を決めるのか。別の企業や研究者が再利用してもよいのか。モデルから生まれた利益は、その言葉を生きてきた人々に戻るのか。
「データが足りない」という言葉は、ときに世界の側を欠損値として記述する。「未開」「未発見」「未開拓」という言葉も、そこに何もなかったことを意味していたのではない。分類する側の体系に、まだ登録されていなかったということだった。
同じように、AIが知らない言語や文化を「未学習領域」と呼ぶとき、私たちはAIの無知を、世界の不足へと言い換えているのかもしれない。
「保存」という言葉の危うさ
この問題への一般的な回答は、データセットをもっと多様にすることだ。AIが西洋中心なら、他の地域のデータを増やす。少数言語の認識率が低ければ、もっと録音する。特定の身体が誤認されるなら、より多様な身体を学習させる。
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